2015年 07月 12日
ポーランド食器を買いに~ヴォレスワヴィエツ~
ドレスデン二日目の朝は、宿に荷物を預けて、列車でポーランドのヴォレスワヴィエツに向かった。
この旅を計画していた時、ドレスデンと言えばドイツと他国の国境近くということで、どこか他の国にも寄れないかと検索したところ、ポーランド食器の特集ページを見つけた。
日本で北欧ブームが高まり、ポーランド食器、いわゆるポーリッシュポタリーの人気がじわじわと高まっている時期で、私はあるデザインを見て、強烈に惹きつけられた。
紺色に縁どられ、ケシの実のような赤い丸と孔雀の羽根模様、ピーコックの組み合わせが、なぜかぐっときた。日本で買うと三倍の値段がするポーランド食器が、工場で買うと千円以内だというお得感も良かった。
そういうわけで、ドレスデンからさほど遠くなかったこともあり、ポーランドのヴォレスワヴィエツに立ち寄ることにしたのだった。
閑静な駅を降りると、人気はほとんどなく、どこに工場があるのかさっぱりわからなかった。偶然通りかかったおばあさんに道を尋ねても、ドイツ語も英語も通用しない。それでも、食器の画像を見せると、ポーランド語で何か言いながら、途中まで連れて行ってくれた。
その間、おばあさんは私にポーランド語で色々と話してくれたのだが、当然ながら曖昧な微笑しか浮かべられない。身振り手振りで、この先をまっすぐ行くといい、と示してくれたので、通じないとわかりつつも、ドイツ語でお礼を言って頭を下げた。
工場の直売店に行くと、運良く買い付けに来ていた日本人に出くわした。ポーランドの通貨はズウォティ(zloty)と言うのだが、それが日本円でいくらなのか、ユーロは使えるかなどといったことを全く調べずに来たため、「表示価格に大体三十掛ければいいよ」と教えてもらえたのはとても助かった。ATMはどこにもなかったが、ユーロも使えるということで、安心して買い物に没頭した。
工房では英語が通じたのに、お店にいた女性には最初に出会ったおばあさんと同じく、どの言語も通じず、とりあえずメニューを見て適当に選んだ。
強烈な郷土料理だったらどうしようか、とぼんやり考えながら待っていると、しばらく食べていなかった魚のフライが出てきた。これが当たりで、美味しくいただくことができた。値段は特に安くなかったが、久しぶりの魚料理に満足して、食べ終わった後は少し日記の続きを書いた。
この後は一度ドレスデンに戻って、ベルリンに向かう。ヴォレスワヴィエツからそのままベルリンに行く、というルートは思い浮かばなかった。ドイツ国内ではバスで移動する、という固定観念があったせいかもしれない。
しかしどちらにしろ、この後のとんでもない事件は免れなかったかもしれない。
満足して気を抜いていた私に、えげつない列車問題が襲いかかってきたのだった。
反対のホームに「ドレスデン」と表示した列車が来た時、全身から血の気がひいた。本気で線路に飛び降りることも考えた。しかし、列車がどちらに動き出すかは断言できない。こんなところで死んでしまっては、意味がない。
歯を食いしばって全力で反対のホームに走ったが、列車は行ってしまった。
そうそう次の列車が来るとは思えない。列車関係でさんざん苦汁を味わってきたため、そんな楽観的なことは考えられない。ショックでふらふらしながら、とにかく駅の窓口に行くと、またしても英語もドイツ語も通じない。
「ドレスデン、ドレスデン」とチケットを見せて繰り返すも、「もう行ってしまったよ」といったようなことを多分言われて、係員の女性は最終的にうるさい虫でも払うかのような仕草で私を追い払った。
これが大きな街であれば、まだ救いはある。ほとんど人のいない閑静な町で、私の旅が終わってしまうーーそんなイメージをして、ぞっとした。しかし、留学で学んだこととして、「助けは自分から求めなければ得られない」ということを嫌というほど経験していたため(本当はその場で赤ん坊のように大暴れしてやろうか、死なば諸共だ、などと考えたのだが)、ホームに向かって英語で、「誰か英語を話せる人はいませんか!」と叫んだ。
すると、目を丸くしてこちらを見ていた十数人のなかから、一人の女性がおずおずと近づいてきて、「私、少しなら話せます」と通訳をしてくれた。
ここで少しほっとしたのだが、なんと次の列車は五時間後だという。その列車を待っていたら、今日中にベルリンにたどり着けない。
鈍行でもいいから、なんとかドレスデンに向かいたいんだ、と伝えると、遠巻きに見ていた数人が加わって、受付の女性と一緒に列車のアクセスを調べてくれた。その結果、四時間かけてドレスデンに戻れることになった。バスの時刻には間に合わないが、ドレスデンにさえ着けばーードイツ語圏にさえ入れば、いくらでも交渉できる。
かくして、私は鈍行を乗り継いで、必死の思いでドレスデンを目指した。
途中、車掌さんに事情を説明したのだが、「このチケットでは線が違うから別料金がかかるよ」と言われたため、「これは鉄道会社のミスでしょう」と思っていた私はにっこりと笑って他の質問をぶつけたり、相手が暇そうなのを見て違う話を振ったりした。
車掌さんはにやりと笑って、「わかった。そのチケットでいいよ。他の線の車掌にも伝えておく」と折れてくれたので、余計な出費は抑えられたのだが、自分でもまあよくやるよ、と呆れ半分に今日一日を振り返る。
列車がドイツ語圏に入り、アナウンスがドイツ語に変わった瞬間、言いようのない安堵を覚えたのだった。
ドレスデンでは、予定していた一本後のマイフェルンバスで交渉するつもりだったが、予定の時間になっても運転手は現れなかった。二十分後、ようやく来たと思ったら、運転手のおじさんが「三十分休憩させて」と言ってカフェに消えたため、困り果ててしまった。その時点で、すでに夜の十一時を超えていたからだ。
たまたま隣にいた黒人の青年が、「困ったな。僕はあっちのバスに乗ることにするよ」と、黒塗りの、何やら高そうなバスに乗り込んだので、思い切ってついていくことにした。
すると、「十一ユーロ、予約なしでいい」とのことだったので、すぐにそのバスに乗り込んだ。水のペットボトルをもらい、窓際の席に座った。
後から私の隣に座ったのは、ウクライナ出身で、今はポツダムの大学で勉強中という女子学生だった。語学学校でもウクライナの女性と知り合ったが、この子も色白で線の細い美人で、隣に座った時からこちらへの興味を感じ取っていた。
バスが発車してすぐに、その子のほうから声をかけてきた。それからベルリンに着くまで、約二時間、私のドイツ語の語彙が尽きるまで、ひたすら話し続けた。
ウクライナの女性は、美人の上に才女が多いと聞く。その子も私なんかよりかなりドイツ語に堪能で、時折文法のミスを嫌味なく訂正してくれるので、いい勉強にもなった。
なにより、危機的状況を脱した後で気が昂ぶっていたから、誰かと話して気を紛らわせたかった。
面白かったのは、彼女が生野菜をぼりぼりと食べ始めた時のことだ。彼女はにんじんのスティックに、なにもつけずに食べていた。それを常に持ち歩いているそうで、私にも勧めてくれたのだが、丁重にお断りした。
逆に私が持っていたチョコレートを勧めると、「アジア人の女の子っていつもチョコレートを持っているのね。私には甘すぎるし、お菓子ばっかり食べていたら体に毒じゃない」と言って、毒の塊でも見るように断った。
そんな風にして、二時間はあっという間に愉快に過ぎ去り、バスが深夜のベルリンに着くと、最後にホテルへのアクセスを教えてくれた。来ることのない「じゃあまたね」という一期一会の別れの挨拶をかわして、私たちは別々の方向に歩き出した。
by white12211122
| 2015-07-12 23:03
| ドイツ留学の思い出