法事で静岡まで行って来ました。
父の従兄弟が住職を勤めるお寺で、幼い頃に一度訪れたきりでしたが、今でも印象深く記憶に残っています。
玄関に石で落書きをしたり、かくれんぼで掘り炬燵に潜り込んで誰も見つけられなかったり、そこらじゅう走り回ったり……(悪ガキや)
住職のほうもはっきりと覚えていたようで(間柄は従兄弟叔父になるので、以下省略して叔父と呼びます)、私を一目見るなり、「あの時はお転婆だったのに、大人しくなったね!」と笑っていました。(スーツじゃ暴れられません笑)
今回、急に父の叔父と叔母の法事に足を運ぶことにしたのは、「親戚」というものに興味を持ったからでした。
そもそも親戚があまり多くなく、おそらくは両親や祖父母の代から疎遠になっている家もあるのでしょう、さほど親しくない親族が一同に介して食事をする……という場面に遭遇したことがなく、親戚といえばしばらく顔を合わせていなくても大体の近況は伝わっているような、ある程度親しみを持てるもの、というイメージでした。
今回、血は繋がっていないけれど遠縁にあたる人々を見てきましたが、総じて穏やかそうで、互いに名乗ることはなく、ちょっとした世間話を交わしてお開きになりました。適度な距離感、面倒くさそうな人はいないようだという直感に一安心(既に剪定された後だったり/笑)
十人にも満たない「遠縁の人々」を見て、納得しました。
(ふうん、家系図ってこんなふうに広がっているんだな。)
自分のルーツ、あるいは属するものの一端を見たり、家系図のなかで自分の立ち位置を確認することは、壮大な言い方をすれば「自分の歴史を紐解く作業」だと思うのです。
自分の立ち位置や歴史の流れを感じられないと、閉塞感に見舞われるのではないか。かつての長屋的な教育の内には、探さなくても常に自分のルーツを感じられる安心感もあったのではないかな、と想像してみたりします。
「またおいで。泊まりにでも、遊びにでもいい」
お堂から始まって、敷地内を丁寧に案内してくれた叔父は、友達も呼んでいいよ、と言いました。合宿やヨガ教室などに場所を提供して、もっとお寺を活用してもらうことを考えているのだそうです。
叔父にそう言われたとき、法事に来て良かったと思いました。
幼い頃の思い出のなかで強い存在感を放っていたこのお寺ですが、私にとっては気軽に遊びに行ける場所ではありませんでした。こういう法事という名目がなければ、二度と来られないかもしれない場所だったのです。
それが今回、もう一度遊びに行ける場所になった。
血の繋がりがあって、幼い頃の自分を覚えていてくれる人の「またおいで」という言葉は、繋がりを感じさせてくれる特別なもののようです。
ロバとヤギとポニーのいるお寺。
敷地内改造中ということで、次回が楽しみです。
興味を持ってくれる友達がいたら、一緒に遊びに行ってみようかな。
印象的だったのが、父がこのお寺で遊んでいたときの話。
夏休みになるたびに遊びに来ていたそうで、父の少年時代の話を他の人から聞く、貴重な体験でもありました(笑)